『創作落語論』
河出文庫
五代目柳家つばめ
p16 歌舞伎や能に解説がつくのはごく普通
p22 あまりにも末梢的な技術の継承と洗練
p24四代目、柳家小さん
「創作力のない者は噺家ではない」
「芸は動いていなればならぬ」
「芸は抜き衣紋(楽な姿勢、大衆相手)でなければならぬ」
p28落語の精神。「寛容」。他人も許すし、自分も許す。人間の弱さの肯定。
p31 古典対新作は、昭和30~40年代。
昭和20年代末に、ホール落語。強力な推進者は安藤鶴夫。
p43 國學院大学史学科、卒論は「寄席史の研究」
p56 つばめと談志、5代目小さんの高弟でほぼ同時に入門
p61 落語の意義はその時聞いている人が最高の感動。その時にぴったり合ったモノが優れた落語。
p63 既製服か注文服か
p67 俳句の会で、その場では多くの天、…、のちになるとそんなにいい出来ではないと思い返すこと
p75 古典派と現代派は、技術の持ち方が違う
p86 独善主義の井の中の蛙
p89 古今亭今輔「40になると、創作力がなくなる」
p105 全落語の概略を全て、言葉の意味も全て、全落語家の得意の出し物を全部聞いたことがある。評論家としての最低条件。
p113 全ての責任が落語家にある。それだけに力の差というか、プロ根性がはっきりあらわれる。
p140 本物そっくりになるとみんながもっているイメージとちがうものになる
p171 立川談志『現代落語論』「落語が大衆芸能だと錯覚された時に落語のもつ本当の良さは失われ、そして落語の堕落が始まったのだ」
p180 益田太郎冠者「宗論、かんしゃく」、托善坊の正蔵「蒟蒻問答、野ざらし」、有崎勉「ラーメン屋」、今村信雄「試し酒」、林家正楽
p203 空気のように、芸と気付かせずに終わるのが、一番いい。
p217 テレビに全然出てない落語家は、勉強してうまくなっているか?本当のことをいったら、むしろテレビへよく出るほうが、勉強のチャンスは多いのである。
東京美術サロンの竹田厳道さん「プロの画家が寡作というのは、年をとっているか、金が余ってきたかどっちかだ」
p219 どう考えても落語は伝承芸能ではない
p229 談志が「落語が能と同じ道をたどりそうなのはたしかである」というのは、落語イコール古典落語、と考えるからで、落語を古典落語という概念から解き放てばそんなことはない。
古典落語が、伝承古典芸能として、大衆芸能から分離して一線を引くこともなく、あいまいな形のまま、その両極端を両立させながら、ずうずうしく生き残っている。
p237 小さん「つばめはな、考えすぎちゃうんだよな。考えすぎちゃうやつは落語家にむかねえんだけどな」
p241 江戸の空気は昭和30年代ぐらいまでギリギリあった。それを変えたのは、戦後の高度経済成長。
p245 江戸明治のころは、日本人の大半がお百姓さんだった。町人なんてほんの一握り。落語は大衆というより、町人文化、都市文化。ラジオの時代に全国に広まる。「落語は日本人の心のふるさと」絶対そうではない。